Se connecter「まだ覚えてる? 俺が好きだったあの曲。あの頃、それを聴くたびに、いつもあの人のことを思い出していたんだ。聴けば聴くほど、想えば想うほど――気づけば、その曲そのものまで好きになっていて。今でも時々聴くし、そのたびに、やっぱり思い出してしまう……」 そう口にしながら、一条はじっと陽菜を見つめていた。その心の奥底まで見透かそうとするように。 陽菜は、ただ小さく瞬きをしただけだった。 夜の闇の中では、彼の瞳の奥に押し込められた激しい感情の揺れなど、知る由もなく、ただ無垢に問いかける。「じゃあ……その人に、会いに行かないんですか?」 一条はふっと笑った。「考えなかったわけじゃないよ……。でも、帰国してから知ったんだ。彼女は今でも、ずっと好きだった人を想い続けてる。あれだけ長く想ってきた相手がいるなら、俺の入り込む隙なんてないよ」 どこか胸を締めつけるような話だった。 陽菜は一瞬、どう言葉を返せばいいのか分からなくなる。 そういえば、一緒にバーへ行ったあの夜も、彼は今と変わらず、胸の奥に寂しさを抱えたような表情を浮かべていた。 そして陽菜に尋ねたのだ。 どうしてそんなに長い間、鷹宮を想い続けられるのか、と。 あの時は、その声音に滲んでいたかすかな羨望の色を理解できなかった。 今なら、分かる気がした。 人はいつだって、自分には手の届かないものに執着してしまう。一度その存在を知ってしまったからこそ、なおさら手放せなくなる。 それはきっと、欲なのだ。 陽菜が鷹宮を想いながらも何も求めなかったのは、ただ自分の立場を分かっていたから。 自分は彼のいる場所には届かない――そう思っていたからこそ、奪おうとも、求めようともできなかった。 結局のところ、臆病だった。 鷹宮をずっと好きでいられたのは、彼がそれほどまでに素敵な人だったから。そして何も望まなかったのは、自分は彼にふさわしくないと知っていたから。
別れてから、それほど時間を置かずに、一条はまた新しい恋人を作った。 さすがに別れてすぐというわけではなかったが、恋人のいない期間はほとんどなかった。 二度目は前回の失敗から学んでいた。今度彼が選んだのは、自分という人間よりも、自分の金に強く惹かれていることが一目で分かる相手だった。 金だけを求める相手なら、いくらでも満たしてやれる。愛を求める相手となれば、一条にはそれを与えられる自信がなかった。 最初のうちは、それでもうまくいっていた。 金と引き換えに、相手の時間とそばにいる権利を得る。 分かりやすく、割り切った関係。 時間が経つにつれて、一条の中に残ったのは、以前にも増して強い虚しさだけだった。 そもそも、自分はなぜ、好きでもない相手をそばに置き続けているのだろう。 そんな疑問が、ふと胸をよぎるようになる。 しかも、愛を欠いた関係は、驚くほど簡単に裏切られる。 付き合っている相手が、陰で別の男とも関係を持っている――そんな場面を、一度や二度ではなく目にするうちに、一条はまたすべてがひどくつまらなく感じられた。 その後に付き合った何人かの相手も、結局は同じだった。 自分がどんな人間を好きになるのか、一条には分からない。そのたびに、今度こそ相手を好きになろうと努力してみる。 どれも失敗に終わった。 もしかしたら、自分は愛することができない人間なのかもしれないと、そう思った。 生まれつき、人を愛する能力そのものが欠けているのなら、ないものを無理に求めても仕方がない。 そう割り切った時、一条は最後の恋人にも別れを告げた。 もう、誰かと付き合おうとは思わなかった。 恋人を作ることをやめてしばらく経ったある夜、一条はふらりと一軒のバーに足を運んだ。 静かなバーだった。 耳を打つような大音量の音楽はなく、店内にはぽつぽつと、一人で酒を飲む客が数人いるだけ。店の隅に設けられた小さなステージでは、黒いシャツを着た男が、穏
海外に来たばかりの頃、一条は心の底から解放感を覚えていた。親父の目から遠く離れたことが、何より嬉しかったのだ。 長いあいだ抑え込まれていた反動のように、彼は歯止めもなく遊びに溺れた。 酒を飲み、女と遊び、毎晩のようにバーやパーティーを渡り歩いては、そこで出会った相手と気ままに言葉を交わす。 何にも縛られないような、自由で奔放な日々。 傍から見れば、ひどく洒脱で、享楽的で、満ち足りた生活だった。 父親は少なくとも金銭面で彼を縛ることはしなかった。小遣いを制限されることもなく、一条が金に困ることは一度もない。 試験期間の前後を除けば、彼の時間はほとんどすべて娯楽に費やされていた。 そんな日々にも、ほどなく飽きが訪れた。 もともと、日本にいた頃に父から過度に管理されていた反動で、海外に出てからこそここまで奔放になっていただけだ。 本質的に、一条はただ快楽だけに溺れる人間ではなかった。 毎日のように通っていたバーも、華やかなパーティーも、やがてすべてが色褪せて見えるようになる。 飽きてしまった先に、一条は気づいた。 もう、自分を少しでも満たしてくれるものが何もないことに。 だから彼は、恋人を探そうと思った。 時間を潰すためでもいい。 あるいは、本気で関係を育てていく相手でもいい。 とにかく、自分に何かしらの意味を与えてくれる存在が欲しかった。 日本にいた頃、一条は誰とも付き合ったことがなかった。 恋愛というものに、これといって面白さを感じていなかったし、好きになれる相手にも出会わなかったからだ。 異国でひとりきりの時間が長くなるにつれ、ふと、誰かにそばにいてほしいと思うようになった。 もともと彼は、ただそこにいるだけで人を惹きつけてしまう男だった。恋人を作ることなど、ほとんど苦労にもならないほど簡単だった。 そう思い立った翌日には、彼は自分に話しかけてきた女性と付き合うことになっていた。 相手は同じアジア系の女性だった。 あるパーティーで一条を一目見た瞬間から惹かれていたらしい。 勇気を振り絞って教室の場所を尋ねに来た彼女に、一条は何気ない調子で言った。「試しに、付き合ってみる?」 まるで告白のようなその言葉に、彼女はその場で頬を真っ赤に染めた。 迷いながらも嬉しそうに頷く彼女を見て、一条はそのままスマートフォンを取
本来なら、陽菜に早く会場へ戻るよう声をかけるつもりだった。 こうして陽菜と並んでバルコニーに立った瞬間、一条自身もまた、不意に宴会場へ戻る気を失ってしまった。 もともと、こうしたパーティーのような社交の場は彼の好むところではない。 周囲で飛び交うのは、株だの投資だの、金の話ばかり。 そんな話題を聞いているだけで、一条はうんざりするほど退屈だった。 おそらく、本当に大金を稼ぐことそのものには、彼はさほど強い情熱を持っていないのだろう。 野心に満ちた企業家たちの中ではひときわ浮いて見え、この空気にもどうしても馴染めない。 鷹宮なら、きっとこういう場にももっと自然に溶け込めるはずだ。 だが、先ほど陽菜の後を追ってここへ来る前、一条は鷹宮の様子がいつもとはどこか違うことにも気づいていた。 その時の彼の意識は別のところにあった。 ひとりで会場を離れた陽菜のことが、何より気がかりだったのだ。 また何かあったのではないか。 ひとりでどこかで、泣いているのではないか。 そんな不安が胸を離れなかった。 幸い、陽菜には何事もなかった。 表情も穏やかで、ただ純粋に鷹宮にひとりになる時間を与えたかっただけらしい。 その健気さに、一条は思わず苦笑した。 自分はここまであれこれと走り回って、陽菜と鷹宮を取り持とうとしてきたというのに、どうやらほとんど意味を成していないらしい。 この二人ときたら……。「藤野……お前は、もう少しくらい欲を持てないのか」「えっ?」 一条の声はあまりにも低く、夜風に溶けるようにかすれて、陽菜の耳にはうまく届かなかった。 聞き返すようにそっと顔を上げ、彼を見上げる。 一条は困ったように小さく息をついた。呆れたようでもあり、どこか諦めにも似た、けれど優しさを含んだ吐息だった。 月明かりに照らされた彼の瞳は、夜の中にあってなお不思議なほど鮮やかで、深い黒の奥に淡い光を宿しているように見えた。 静かな水面に月が映り込んで揺れているように。 いつもはどこか余裕をまとい、人との距離を巧みに測る一条が、今は少しも視線を逸らさない。 むしろ、夜の闇が周囲をやわらかく覆い隠してくれるからこそ、彼はこんなにも無遠慮に、まっすぐ陽菜を見つめていられるのかもしれなかった。 しかし、見つめれば見つめるほど、胸の奥に沈んでいた感情が激し
宴会場へ戻ってからも、鷹宮は表面上こそ普段と変わらぬ落ち着きを装っていた。 その視線だけは、無意識のうちに何かを探し求めるように、幾度となく会場の中を彷徨っていた。 何度も、その視線が陽菜とふと重なる。 そのたびに鷹宮はごく淡く微笑み、けれどどこか不自然なほど素早く目を逸らしてしまう。 同時に陽菜が気づいたのは、彼の酒を飲むペースが明らかに速くなっていることだった。 ほんの数分、別のことに気を取られていただけの間に、鷹宮はすでに給仕のトレイから三杯目のシャンパンを手にしていた。 その纏う空気も、いつものような余裕に満ちたものではない。 どこか理由のわからない焦燥が滲んでいる。 しかし一条のようにそれを露骨に表に出すのではなく、もっと深く胸の内へ押し込めるような、そんな忍ぶような焦りだった。 陽菜がこうして彼の隣に寄り添っているからこそ、かすかな違和感として感じ取れるのかもしれない。「鷹宮さん……どなたか、お探しですか?」 鷹宮が何度目かに会場を見渡したその時、陽菜は思い切って口を開いた。 不意に声をかけられたことに驚いたのか、鷹宮は一瞬だけ目を見開き、短く思考を止めたように見えた。 それからすぐに柔らかく笑い、首を横に振る。「どうして、そう思ったの?」「なんとなく……鷹宮さん、何かを探していらっしゃるように見えて。もしそうなら、私も一緒にお探しできますから」 自分がそばにいるせいで、彼が自由に動けないのではないかと、そんな不安を振り払うように、陽菜はどこか自分に言い聞かせるように言った。 鷹宮はやはり静かに首を振るだけだった。 認めたくないものを否定するように。「違うよ、陽菜さん。誰も探してなんていない」 そう言いながらも、その視線も、その心も、決して完璧に隠しきれてはいなかった。 陽菜と話しているこの瞬間でさえ、彼の意識はまるで会場のどこか別の場所へ引き寄せられているようだった。 でも……鷹宮がそう言うのなら、陽菜は疑うこともなく、その言葉を受け入れた。 無条件に、ただ彼を信じて。 鷹宮が四杯目のシャンパンを手に取り、今度も一気に飲み干したところで、陽菜はそっと口実を作った。「鷹宮さん、すみません……少し、バルコニーで風に当たってきてもいいですか?」 鷹宮は数秒遅れてようやくその言葉を理解したように、ゆっ
鷹宮は、一条にとってこの世で最も大切で、決して失うことのできない友人だった。 だからこそ今この瞬間、彼を案じるあまり理性を失いかけている一条の焦燥を、陽菜には痛いほど理解できた。 陽菜は一条の後を追うようにして、ともに二階へと駆け上がった。休憩室へと続く廊下には、鷹宮の姿はどこにも見当たらない。 一条の苛立ちは目に見えて増していく。 月乃のような女に鷹宮が振り回されることを、彼は本気で恐れていた。 鷹宮の性格を思えば、たとえ相手に嵌められていたとしても、自分が利用されていることにすら気づかないかもしれない。 そう考えれば考えるほど、胸の内に不安が膨らんでいく。 そこでようやく、一条は鷹宮へ電話をかけることを思い出した。 スマートフォンを取り出す手つきは驚くほど素早く、画面を見ずとも迷いなく鷹宮の番号を呼び出していた。 鷹宮はすぐには電話に出なかった。 その事実が一条をさらに焦らせる。 このまま一部屋ずつ扉を開けて探し回るべきかと、そう考えたその時だった。 不意に服の裾が小さく引かれる。振り向くと、そこにいたのは陽菜だった。「一条くん……さっき、鷹宮さんを見かけた気がして」 一条の今の様子があまりにも落ち着きを欠いていたせいか、陽菜の声音にもどこかおずおずとした怯えが滲んでいる。 その言葉に、一条は一瞬だけ目を見開いた。 そして自分ではできるだけ優しく見せようとした微笑を浮かべ、意識して声を和らげる。 陽菜には、その笑みがどこか無理をしているように見えた。「どこで?」「さっき振り返った時に……階段のところで鷹宮さんを見た気がしたんです。でも、はっきりとは……」「大丈夫。行ってみよう」 一条は陽菜の言葉を一切疑っていないかのように頷き、そのまま彼女と並んで階段口へ向かった。 二階は依然として静まり返っていた。 三階の華やかなパーティー会場とはまるで別世界で、床一面に敷かれた厚い絨毯が、二人の足音すら完全に吸い込んでしまっている。 * 階段の先には、確かに鷹宮が立っていた。 三階と二階を繋ぐ踊り場の途中。手にはどこかで見つけたらしい新品のスーツ一式を抱えている。 おそらく月乃のために持ってきたものだろう。 彼は休憩室へ戻ることなく、ただその場に立ち尽くし、何かを考え込むようにぼんやりと虚空を見つめていた。 一
月乃は、まさか自分に上着を掛けてくれる人が現れるとは思ってもいなかった。 作ったようなすすり泣きの声が、一瞬だけぴたりと止まる。彼女は顔を上げ、目の前の男を見つめた。 月乃にとっては、完全に見知らぬ男だった。「大丈夫ですか?」 誰に対しても変わらない、穏やかで優しい声音。 鷹宮はそう問いかけると、一度振り返り、陽菜に宥められている一条へ視線を向ける。 そして再び月乃へ目を戻した。「お二人の間に何があったのかは分かりません。でも、今の修司は少し冷静ではないようです。話をするなら、彼が落ち着いてからのほうがいいでしょう」 そこで、彼の視線が月乃のワインで濡れたドレスへ落ちる。
陽菜と鷹宮が駆けつけた時、ちょうど一条の冷えきった声が響いた。 毒でも含んだような、鋭く冷たい声音だった。「よくそんなことが言えるな。俺に酒を勧めるなんて――中に何を入れたか分かったもんじゃない。前にも言ったはずだろ。これ以上、俺の前でうろつくなら、今度こそ容赦しないって」 床に倒れ込み、赤ワインを全身に浴びている女。 それは月乃だった。 一条の立場もあり、さらに月乃の顔を知る者はほとんどいない。当然のように、その場の空気は一条の側につく。「一条さん、そんな女、警備に連れて行かせれば十分でしょう。わざわざご自分で怒る必要なんてありませんわ」「一条様のストーカーだそうですよ。怖
鷹宮はすぐに悟った。 一条が言っていた「サプライズ」が何を意味していたのかを。 思わず、一条がまた陽菜を無理に連れてきたのではないかと考えてしまう。 いつもの癖で、まずは友人に代わって謝ろうと口を開きかけたが、陽菜の顔をしっかりと見た瞬間、その言葉は喉の奥で止まった。 思わず、その姿に見惚れてしまった。 会場を照らすクリスタルの灯りは、まるで砕けた金の粒が天井から静かに降り注ぐようだった。 その光を受けて、陽菜のドレスがやわらかく揺れる。 極めて繊細なサテンとチュールで仕立てられたドレスは、光が落ちるたび、まるで月光をそのまま布に閉じ込めたようなやさしい艶を帯びていた。 ウ
陽菜の頬はさらに一気に赤く染まった。俯いたまま、一条のほうを見ようとしない。 ただ、耳元で低く響く彼の笑い声だけが聞こえる。まるで、こうして自分をからかうことが、たまらなく面白いことのように。 恥ずかしさでいっぱいで、怒る気力すら湧いてこない。「も、もう……からかわないでください、一条くん……」 一条はネックレスをつけ終えると、ちょうどいい距離を保つように一歩後ろへ下がった。 笑みのせいでわずかに細められた瞳は、なおも陽菜を見つめている。 その眼差しには、彼自身ですら予想していなかったほどの、尽きることのないやわらかな温もりが宿っていた。* パーティー会場は港区にある会員制